“名選手だった人が必ずしも名監督になるとは限らない”
これは良く知られた概念だと思う。しかし、その理由を知る人は少ない。
読者の皆さんは、なぜ名選手が名監督にならないのかご存知だろうか。私は知らない。誰か教えて。ご存知の方は当サイトの問合せフォームからどうぞ。
ただ、“こうではないか”という仮説はあるので、今日は自分の整理のためにその仮説をつらつらと語ってみたい。
あ、これを書いたからといって私が名監督というわけではありません。むしろ私はダメダメ指導者側です。
・技術に対する解像度
技術は細かい。いや、人によって細かく見える度合いが違う。この度合いを解像度と表現しよう。
格闘技の試合解説を聴くとそれがよくわかる。解像度の高い解説者が解説すると、選手が今やっている技術とその狙い、これからの展開予測などがすらすらと出てくる。展開予測も当たりまくる。元K-1チャンピオンの魔裟斗さんなんかがそう。魔裟斗さんが「あ~左ミドル狙ってますねー。(ガーン)これですね」、「ボディ打つといいですね。(ボンッ)今打ちましたねー」みたいなのがいくつも出てくる。
まぁ魔裟斗さんは名選手だったが、この技術に対する解像度は名選手だったがどうかはあまり関係ないように思う。しかし名監督は大体この解像度が高いようなイメージがある。要は、解像度は自分の経験だけではなく、どれだけ観察・勉強したか、によるのではないかと。
・人によって違う得手不得手、長所短所の視点
名選手は当然技術力が高い。その技術をもって名選手と言われる。しかし、往々にして見られるのが、“自分ができてしまうことは他人もできる”と思ってしまうこと。そして“努力すればどんなことでもできるようになる”と安易に思ってしまっている感じもある。
もちろん、努力でできるようになることもたくさんある。上を目指すながらその努力は欠かせない。しかし人には得手不得手があり、長所短所もある。名選手だった人はその視点が抜けがちであり、そのために他人の姿を見て『なんでできないの?』と思ってしまいがちなのではないか、という仮説。
・説明力
私は、道場を作って指導する側になって困ったことがあった。技術や道場のことなどを言語化して人に伝えるのが難しいということ。
私はかなりの口下手だ。自分の母親からも「お前は何を考えているのか分からない」と言われるくらい、しゃべらないやつだ。
しかし、道場を作って指導側になると説明をしなければならない。大人に対してはまだいい。聞き手に理解力があるから。ところが、子供相手だとそうはいかない。それぞれの理解力の差が大きいためだ。
できるだけ分かりやすい言葉で伝えようとするが、適切な言葉が浮かばないことが多い。言葉にしようとすればするほど、適切な言葉が出ず吃音のようになってしまう。説明するのは難しい。
また、言葉が多ければいいというわけでもない。言葉は相手に伝わって理解してもらわなければ意味がない。
こういった説明力は名選手だろうとそうでなかろうと関係ないだろう。
“辞は達するのみ”(言葉は伝わってこそ)
“大弁は訥なるが如し”(本当に優れた弁舌は言葉が少ない)
正にこれ。や~私は“説明する”という勉強をもっともっとしなければならない。
・チーム把握力
「何かを説明する時に挙げる項目は3つまでにしとけよ」と妻に言われているが、あえてもう一つ挙げたい。
チーム把握力だ。名監督はこの能力が長けている印象だ。チームが今現在どのような状態にあるのか、何が課題なのか、このチームに課題を克服させるにはどうすればいいのか、そして、目標に向かってチームのモチベーションを上げるにはどうすればいいのか、などをきちんと把握している。
やはりチームを率いる人にこの能力は必須だろう。まぁこれには人間力が大きく関わるので難しいのだが。
名選手が名監督に必ずしもならない理由、というか、名監督になる最低条件を4つ挙げてみた。改めて書いてみると、私にはほど遠いことが分かる。精進しなければ…。やはり一番は人間力のような気がする。
あ、この4つは、私がネタに困った末に高田純次さんなみの“テキトー力”を発揮して書いたので、決して鵜吞みにしないでください。マジで。
<今週の動画>
健気に稽古をがんばる新人ちゃんの様子

