運動嫌いになる要因

運動嫌いになる要因

朝日新聞の2025年7月1日の記事<「運動会嫌い」大人の責任では 肯定感下げる禁句「来年は1番に」>を読んだ。記事では、「小学校低学年より高学年、高学年より中学生、高校生と成長するにつれて運動嫌いは増えていく」「一つの要因としては、体育授業や運動会を通じて「運動が苦手だな」と子どもが自覚してしまうことが挙げられます」とする専門家のコメントを掲載している。
その専門家は実例として“褒め方”を挙げている。

褒め方注意
子どもが運動会の徒競走で2番になった。保護者は「頑張ったね」と言った後に「来年は1番になれるといいね」と付け加える。この褒め方だと『やっぱり私はダメなのかな』と思ってしまう、とのこと。
専門家は、「本来は褒めるだけでいいのですが、保護者も結局のところ、順位が上の方がいいという気持ちがある。教員も何だかんだいって、運動ができる子によい評定をつける傾向がある。(中略)大人の責任は大きいです。」としている。
ドキッとした。「来年は1番になれるといいね」に近い励ましを幾度も使っている。
「いい試合だったよ。次は勝てるように頑張ろう」、「相手の動きや技術をもらって、次は君が上手になろう」、などだ。要は、『今の君はまだまだだ』とする意味が隠れているような言葉だ。
その言葉に子どもが運動嫌いになる要因があるらしい。このことは頭に入れておく必要があるだろう。
しかし実際はかなり難しい。上位を目指して頑張る子や、こういった類の励ましの言葉によって奮起する子が実際にいるからだ。そういう子に対して「がんばったね」や「準優勝おめでとう」だけで足りるのか、葛藤がある。

運動嫌いを防ぐ方法
他方、記事を書いた記者は「「運動会嫌い」におよそ共通する原因は、運動自体のつらさではなく、他者との比較で恥をかいたり、自己肯定感を損なわれたりした経験にあるようだ。」としている。
よくわかる。なにせ私も運動会が大嫌いだった。なぜなら、私は走るのが極めて遅いから。今考えるとだが、大勢の前で走らされて、脚が遅いことを強制的に暴露させられ、ビリのレッテルを貼られる。幼少期や思春期の子にとって、まるで公開処刑のようだ。これでは残るのは運動会嫌いと自己否定だけだろう。
記事では、運動会嫌いを防ぐ実例として、“短距離走・中距離走の選択制”や“子どもたちと相談しながら作った障害物リレー”などを挙げていた。つまり、運動会に“自己決定”という要素を取り入れることによって、子どもたちの意欲を引き出す、ということだ。
専門家は、「(中略) 取り組む運動と自分の能力がマッチしている場面をどうつくるか、がカギになる」としている。
大人になってもだらしのない人間で自己否定することが多かった私だが、幸い、格闘技と出会ったおかげで少しまともな人間になり、現在は根拠のない自己肯定感の塊になった。これも、“取り組む運動と自分の能力がマッチしている”という好例だろう。
しかし一方で、“身体的・精神的に空手という競技はマッチしていないが、空手そのものは好き”という子がいた場合はどうすべきか。これも葛藤がある。組手が苦手でも型を好きになってくれる、または型が苦手でも組手を好きになってくれればいいのだが…。

闘気塾の卒業生たち
幸い、闘気塾を巣立っていった人たちはみんな運動を続けている。運動嫌いにはなっていない証拠。“社会教育としての武道”を標榜し、子どもたちには『生涯にわたってスポーツをしてほしい』と願っている私にとって、それは嬉しいことだ。
しかし、かける言葉を一つ間違えば運動嫌いにさせてしまう可能性があるという認識は持ち続けなければならない、と肝に銘じた記事だった。