相手を深く慮るという“高難易度の技術”

相手を深く慮るという“高難易度の技術”

私は子ども時代、学校の教科は国語や社会が得意だったが数学が苦手だった。私は典型的な文系人間。
少し前に“ちょっと数学を学びなおしてみよう”と思い立ち、AIに教師役をやってもらう形で因数分解や連立方程式をやってみた。まぁ案の定、最初はさっぱり分からなかったわけだが、AIのおかげでなんとか簡単な問題は解けるようになった。しかし、大の数学嫌いの私にとっては、そんな中学レベルの数学でも高難易度のものだ。そのせいでその学びなおしは…数日で終わりを迎えた。
数学を学びなおしてみて一つだけ中学時代と変わらない感情があった。
「これ、何の役に立つ?」

要求される手加減
空手を含む格闘技は、誰かと戦うことを前提にしている。そこには“目の前の相手を痛めつける”という行為が紛れもなく含まれている。その非日常性があるからこそ、多くの人が格闘技に魅了され、長幼を問わず心身が鍛錬されるという面がある。
一方で、その“相手を痛めつける”という行為が度を超すと、逆に心身がもたずに辞めてしまうということが起きる。それゆえに闘気塾では“適切に手加減をする”ということを道場生に要求する。しかしこれが実に難しい。
私自身の思考整理のために、“適切な加減の何が難しいのか”を考察したい。

手加減が難しい理由
「手加減をする」
この言葉だけ聞くと簡単だと思いがちだが、以下の点で難しい。

・相手のため
手加減は相手を過度に傷つけないためにする。しかし、相手によって技術レベルも異なるし、身体能力も格闘技に臨むモチベーションも異なる。この“相手によって自分の加減を変える”というのが難しい。言い換えれば、相手を慮る能力が必要ということ。

・当事者間の“今までやってきたこと”の乖離
他道場との合同稽古で度々起きることだが、一方の人が選手志向で今までバチバチな稽古を重ねてきて相当強くなっている場合、その人が手加減をしているつもりでも、もう一方の人にとっては過度な負担になっていることがある。つまり、技術の差がありすぎた場合の手加減が難しい。

・相手の能力の誤解
格闘技をやっている人とやっていない人の差は、攻撃能力よりも打たれ強さを含む“防御能力”に大きく現れる(私見です)。攻撃能力だけなら、格闘技をやっていなくても高い人は結構いる。パンチ力・キック力・当て勘など、素人ながらそれらの能力に優れた人はいる。で、そういう人がいざ格闘技を始めようと道場やジムに所属して組手やスパーをやると、攻撃能力が高いため相手の人は『この人は強いからこちらもある程度強い攻撃を返しても大丈夫だ』と思ってしまう。または、防衛本能が働いてつい強い攻撃を返してしまうことがある。
ところが、今まで格闘技をやっていなかった人はまだ防御技術がなかったり打たれ弱かったりする。その状態で経験者の強い攻撃を受けると負担が度を超えてしまう。
要は、相手の能力を誤解している状態だと手加減が難しいということ。

相手を慮る能力
“適切な加減が難しい理由”は、主には以上のようなことになるかと。
こうやって理由を挙げてみると、総じて適切な加減には“相手を深く慮る能力”が求められるということが分かる。

“相手の技術レベルはどの程度なのか”
“相手は今日どんな気持ちで練習しているのか”
“どんなモチベーションで格闘技をやっているのか”

それらを深く洞察することが必要になってくるから、適切な加減は難しいのだろう。その証拠に、こんな偉そうに適切な加減の難しさを書いている私も、手加減に失敗して相手を怪我させてしまったことがある。長年やっている人でもそれほど難しい技術なのだ。

フルコンタクト空手業界にいると、合同練習会で心を痛める場面に遭遇することがある。
相手を容赦なく痛めつける行為や背中を向けてしまう相手に追い打ちをかける行為、それだけでなく、それらの行為を容認するどころか推奨する指導者。
何のために空手をやっているのか。おそらくそういった道場と所属する選手は、心身の成長のためにやっているのではなく、“組手が強ければいい”のだろう。

闘気塾ではこのような行為はさせない。たとえ組手が弱かったとしても試合でいい結果が出せなくても、絶対にさせない。
闘気塾は、“相手を痛めつける強さ”ではなく、“相手を慮る気持ち”や“相手を尊敬する心”を養う道場でありたい。