とにかくネタに困っているこの闘気塾日記。あまりに困りすぎて、“ダラばな”を書いたり柄にもないことを書いたり、はたまた、大した格闘家でもない私が偉そうなことを述べたりしている。
そして今日は偉そうなこと書く回。というか、どなたかネタを提供してください早く。切羽が詰まりまくっています。ん?「切羽詰まる」の切羽って何だろう…調べよう。
無駄なのか?
一見無駄と思えることが無駄じゃないということはよくある。また、今は無駄と思えることが後々無駄じゃなかったと思えることもよくある。この現象のことをなんというかご存じだろうか。私は知らない。近代哲学者辺りが何か名前を付けてそうだが、私は知らない。
それはさておき、少し前の話だが、柔術仲間のある女性がこのようなことを言っていた。
「技術解説などの動画を観て勉強しても、なかなか理解できないし次の練習のときにやろうと思ってもできない」と。非常にわかる話。私もそういうときはしょっちゅうある。
格闘技のレッスンでは初級者も上級者も入り混じって練習することがよくある。様々なレベルの人たちが一緒になって、その日指導者から説明される技術を練習する。
練習する技術は、当然簡単なものから難しいものまであるのだが、一緒になって練習する。難しい技術は初級者には理解しがたいものもあり、理解できなければ当然使えない。
では、理解できなければ動画を観て勉強した時間は無駄なのか?使えなければその練習は無駄なのか?
無駄じゃありませんよ
決して無駄ではない。
格闘技における技術というのは、フィジカルやバランス、ポスチャー(姿勢)、四肢の動き、体重移動、プレッシャーのかけ方などいろいろな要素が複雑に混じり合って出来ている。それらを習得するにはとても時間がかかる。
そして習得するのはすべてスローペース。一歩ずつゆっくりと階段を上る感覚に近いと思う。しかし諦めずに一歩を踏み出し続けることによって、見えてくる技術がある。見えてくる景色がある。
上記の要素がちょっとずつ向上することによって『あ、あの時動画で観たあれはああいうことか』とか、『あの時先生が言っていたのはこういうことか』と気付くときがあるのだ。
そして動画や技術を見る視点も変わってくる。
例えば、“左脚で蹴りを打つときの右脚はどのように動いていたか“とか、”右手で相手の腰を制しているとき、体重はどこにかかっていたか“とか。
その技術において、一見注目されがちなところではない別のところが見えてきたりする。そうなると技術に対する解像度が爆上がりするわけだ。
学んだ技術をできるだけ忘れないようにする工夫も必要。動画であれば、その時理解できなくても何度も見返すとか、ノートに記録するとか。私もやっている。
努力は無駄にはならない。あのとき理解できなかった技術、明日にはできるかも。
そして、そんなことより闘気塾日記のネタください早く。素晴らしいネタを提供してくれた方には、宮崎牛1万円分を必ず送りません。