武道は精神○○の場

武道は精神○○の場

あぁ…今年も暑い季節がやってきた。私は暑いのが苦手だが、体育館は蒸し風呂状態。
今年も容赦なくこの季節がやってきた。
自分との闘いの前に、暑さとの闘い。いや、これもある意味自分との闘いか。もう…負けそう。

武道は精神修養の場
武道は精神修養になるとよく言われる。
武道は元々、武士が戦うための”兵法”または”兵術”として修練されていたという。
江戸時代になって世が太平になり、戦のためだけの術ではなく、”剣禅一如”に表されるように精神修養としての役割も大きくなってきた。
明治になり、柔道創始者の嘉納治五郎先生がそれまでの”柔術”ではなく、”柔道”として明治15年に創始した。そのうち剣術も”剣道”と呼ぶようになる。
”道”という漢字には、『人として歩むべきみち』という意味もあるが、武道を”精神修養の場”として意識した証拠だろう。

そんな経緯をたどって現代にも受け継がれている武道であるが、実際に武道を学ぶ者としての実感を記してみたい。

子供の武道
子供の場合、試合が大きな精神修養の場となりやすい。
以前にも書いたが、努力を重ねる試合前練習や大勢の目の前に自分の姿を置く試合、自信につながった試合後などのプロセスを経て、子供の精神に大きなプラスとなる。
試合以外ではどうか。
ある小学1年生の道場生は、入ったばかりの頃、まだ教えていないうちから「押忍」という返事を使いはじめた。先輩の姿から自然と礼儀礼節を学んでいたのだ。
また、苦手な稽古でも継続することが求められるし、組手になれば自分より強い相手と立ち会うこともある。
そのような厳しい場面を乗り越えることによって、精神力を鍛えることになる。
このようにして、子供にとって武道の一つ一つの場面が精神修養の要素となるのだ。

大人の武道
大人はと言えば、私自身はまだまだ修行の身ではあるが、武道からたくさん精神修養をさせてもらっている。
私は、元々非常にだらしのない人間で、一人暮らしの時はいわゆる”汚部屋”に住んでいた。
部屋中にコンビニの弁当殻が散乱し、洗い物も何か月もしていなかったり、入浴しない日もあったりした。
そのような不摂生な生活をし、体重は93キロにまで増えた。もう本当にだらしない人間の典型であった。
そんなだらしなさから抜け出したくて、空手を始め、減量も成功して生活もまともになった。
今でも武道で心身を正常に保っている実感は大いにあるし、心の拠り所になっている。
この事からも、大人にとっても武道は立派な精神修養の場であることは間違いない。

武道文化研究者アレック・ベネット氏はこう言う。
「興味から武道を始めたが、続けるうちに修行的になり、宗教のような存在になった。ある意味で、宗教に代わって精神的な水杭や安定を保つための一つの選択肢になっている」

武道は自分との闘い。その闘いの先にいる成長した自分に会えると思えば、まったく苦ではないし楽しくなる。
みなさんも挑戦してみませんか?