適切な指導とは何だろう

適切な指導とは何だろう

子供は成長途中
先日、ある大会で指導者が小さい道場生を怒鳴りつける場面を見た。
どうも、自身の呼びかけの声がその道場生に聞こえておらず、応じなかったのが気に食わなかったらしい。

悲しい。いまだに自身の感情をそのままぶつける指導を行う指導者がいる。

人それぞれだが、小さい子供は集中がまだできないし、集中が続かない場合が多い。
ましてや、周りが騒がしい状況だったり気になるものが周りにあったりすれば、当然、聞こえにくいし集中は途切れやすい。

それはなぜかというと、“まだ子供だから”。

子供は様々な経験をしながらちょっとずつ成長し、生きる術を身につけていく。身についていない子供のうちは、“できなくて当たり前”なのだ。
生物的に強い側が弱い側に対して一方的に感情や考えをぶつける行為は、いじめや迫害と構造的には変わらないが、いまだに平然とやっている。

まだまだ起こる部活動の暴力・暴言
他方、部活動などで指導者による暴力・暴言のニュースもなくならない。
生徒たちの大会での結果を自分自身の目標にし、結果が芳しくないと生徒たちのせいにし、暴力・暴言をする。
暴力・暴言をした指導者の多くが「優勝させたくて」「強くなってほしくて」というような事を言う。
もっともらしく聞こえるが、私は違うと思っている。
大会の結果は生徒自身の目標であるべきで、指導者の目標にすべきではないと私は考える。
生徒にできないことがあるならば、それは指導が誤っている可能性があるのであり、生徒が誤っているわけではない。

ちなみに私は、こういったケースでよく使われる“体罰”という言葉があまり好きではない。
“罰”という言葉には“悪い行いに対する懲罰行為”という意味があるが、大会の結果が何の罪になるのか、指導者の思う通りに生徒ができないことの何が悪いのか理解できないため。

適切な指導を
私は怒りや叱ることを否定しているわけではない。場合によっては叱ることも必要だと思う。
私は競技や競争を否定しているわけではない。子供によってはそれが楽しいと思って励み、成長の糧にしている子もいる。
ただ、恫喝や暴力、人格否定は違うのではないかと思っている。
子供も一人の人間。まだまだ成長途中であるし、得手不得手もある。人格もあるし人権もある。
子供の動きや考えが指導者と異なって当然。指導者の思い通りにならなくて当然。
1回で覚えられなければ2回教えればいい。10回教えても覚えられなければ100回教えればいい。
指導者がやるべきは、傾聴と尊重、説明と環境整備。勘違いしてはいけない。

部活動での暴力・暴言に関するニュース記事の中で、次のような専門家の言葉が掲載されていた。
「スポーツにはまず、暴力的な構造がある。例えば、より高く、より速くと、今の自分を否定して上に行こうとする。スポーツを競技的にやっていく仕組みに暴力性が内在され、競争は他者を抑え込んで上に上がることを意味する」

スポーツには厳しい一面があるということ。それなら、指導者はなおさら“スポーツの楽しさ”を教える努力をしなければ。

…と、自分自身の肝に銘じるために書いてみた。